監視社会と僕が裸族な理由について。
だいぶ久しぶりにこのブログの存在を思い出した。
先日、無謀にも講談社に投稿した小説の結果が発表され、ありがたくも最終選考のようなものに残っていたことを知った。
それに浮き足立ち、さあ次作も頑張るぞと筆を取って早2週間弱。一文字も進んでいないのが現状である。
浮いてた足は既に地につき、なんだったらベッドに体を横たえている。地球の重力と冬の寒さと布団の暖かさに負けてしばらく浮きそうもない。
しかし、それでも何かしらの創作活動はしたいと思い、このブログのことを思い出したのだ。
まあ別に描くことなど何もない気がするが、適当に脳の片隅にあるものをより合わせてそれっぽいものでも拵えてみよう。チャーハンと同じである。よければお付き合いいただきたい。よくなかったら別にいいよ。
さて、具体的に何を書くかわからないままふらふらと前書きばかり書いていたがそろそろ引っ張れないだろう。観念して何かしらを描こう。何がいいだろうか。
そう、そうだ、私が普段裸で過ごしているその理由をここに描こう。
突然何をと思われるかもしれないが、この私かなかわ22歳、基本的に家では裸である。
しかしそれを誰に話しても私への目つきが「愉快な青年」から「愉快な異常者」に変わるだけで誰も本当の私をわかってくれたことはない。私は本当は「異常な青年」なのだということを。より危険度が増した気がするね。
読者の皆様は、「トゥルーマン・ショー」という映画をご存知だろうか。
ジム・キャリーが主演を務める有名な映画である。
かなり大まかなあらすじとしては、普通の日常を過ごす普通の青年、「トゥルーマン」彼は普通の学生生活を送り、普通の会社に就き普通の仕事を普通にこなしていた。
しかしある日、彼は気づいてしまう。彼が使うことのないドアの向こう。彼が通ることのない道路。彼の知らない場所。それら全てが存在しないことを。
そう、これは彼の人生のためだけに用意されたテレビ番組のセットだったのだ。
彼は生まれてからこの日まで、自分以外が仕掛け人の世界で、用意された台本通りの世界に生きていたのだ。
恋愛も、勉強も、仕事も、セックスすら、誰かに見られている。その世界で、彼はどうするのか。
などと映画紹介をしてきたが、このブログはそれが目的ではない。なぜ僕が基本裸なのかという理由だ。
もしも――もしもこの世界で何もわかっていないのは自分だけで、ほかの人やものは全て自分という存在がシナリオ通りに動くためのセットだとしたらどうしよう。そんなことを私はふと思う。
何をバカな、とそこのあなたは一笑に伏すだろう。しかし、果たして笑った後、忘れることはできるだろうか。
あなたが開かない扉の奥がコンクリートで埋められていないとどうして言えようか。
あなたが見ない映画が今上映していないとはどうして言えようか。
あなたが目を閉じた瞬間、世界中の人が一点にあなたのことを見ていないとどうして言えようか。
こんな考えはシュレディンガーの猫のようだ。箱の中の猫が生きてるか死んでるかは誰にもわからないし、閉じた瞼の向こうがどうなっているかもわからない。
だからこそ、私は基本的に裸なのだ。
私という人生が誰かの笑い物になっているとすれば、せめて見苦しい私の体を曝け出そうと思う。
いつ見ても裸なら、その観測者とやらがご飯中に見れないようにくらいならできるのではないだろうか。
だから、私は――裸なのだ。
んなわけないじゃん。
バァ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜カ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
うんちぶりぶり。寝ーよおっと。